はじめに
「手術の傷跡をできるだけ目立たなくしたい」 「赤く盛り上がった傷(ケロイド・肥厚性瘢痕)をなんとかしたい」
形成外科専門医として診療を行っていると、こうした切実なご相談を日々いただきます。
一般的に「ボトックス」といえば、シワ取りやエラの治療といった美容目的のイメージが強いかもしれません。しかし実は、「傷跡の予防・治療」においても、ボトックスが有効であるという医学的エビデンス(科学的根拠)が蓄積されつつあります。そしてボトックスは「傷にかかる緊張を和らげる」ことと「炎症を起こす細胞の働きを抑える」という2つの作用で、傷跡をきれいに治す手助けをしてくれます。 ただし、魔法のように全ての傷が消えるわけではありません。
この記事では、現役の形成外科専門医が、実際の医学論文に基づいて「なぜボトックスが傷に効くのか」「どのタイミングで打つべきか」を正しく解説します。
実際に傷にボトックスを打った症例がこちら👇
なぜ傷跡にボトックスが効くの?
傷が治る過程で、過剰に盛り上がってしまった状態を肥厚性瘢痕(ひこうせいはんこん)やケロイドと呼びます。これらが発生する主な原因は、「物理的な引っ張る力(張力)」と「過剰な炎症・線維化」です。
ボトックス(A型ボツリヌストキシン)は、以下の2つのルートでこれらを抑制します。
① 物理的メカニズム:傷を引っ張る力を弱める
傷跡が汚くなる最大の要因の一つは、筋肉の動きによって傷口が常に引っ張られることです。
これが過剰に作用すると、いわゆるケロイド・肥厚性瘢痕と呼ばれる、盛り上がったキズとなってしまいます。

日本形成外科学会サイトより
ボトックスには筋肉を一時的に麻痺(リラックス)させる作用があります。キズの周囲の筋肉にボトックスを注射することで、創縁にかかる「引っ張られる力(張力)」を減少させ、安静な状態を保つことで、傷が幅広くならず、きれいに治りやすくなります。 これは形成外科領域では「Chemoimmobilization(薬理学的固定)」と呼ばれる概念であり、多くの臨床研究でその有効性が支持されています(1)。
② 化学的メカニズム:細胞レベルでの炎症抑制
近年の研究では、ボトックスが細胞に直接働きかけることも分かってきました。 キズ跡が赤く盛り上がる時、体内では「TGF-β1」という指令物質が増え、それが「線維芽細胞(せんいがさいぼう)」を刺激し、コラーゲンを過剰に作らせます。
2015年の Plastic and Reconstructive Surgery 誌に掲載された研究(Jeongら)では、肥厚性瘢痕から採取した線維芽細胞にボトックスを作用させたところ、以下の結果が確認されました。
- 線維化を促進する物質TGF-β1の発現が阻害された
- キズを収縮させる筋線維芽細胞(α-SMA発現細胞)が減少した
- 線維芽細胞の増殖も抑制
- 瘢痕の重量も減少


下:肥厚性瘢痕から得られた線維芽細胞の増殖がボトックスによって抑制


つまり、ボトックスは単に筋肉を止めるだけでなく、キズ跡を作る細胞の暴走自体をブロックする効果も期待できるのです(2)。
傷跡ボトックスはいつ打つのがベストなの?
「いつ打てばいいのか?」というのは、予防目的と治療目的で考え方が異なります。
① 手術直後〜早期(予防投与)
「これから手術を受ける」「怪我をした直後」という場合、早期の投与がキズ跡をきれいに治す鍵となります。
2019年の研究(Anら)では、甲状腺の手術を受けた患者様を対象に、「術直後」にボトックスを打ったグループと、「術後2週間」で打ったグループなどを比較しました。 その結果、「術直後(当日の縫合時)」に打ったグループが、最も傷の幅が狭く、見た目の評価も高かったことが報告されています(3)。

これは、傷が治り始める最初の段階(炎症期〜増殖期)で、ボトックスを作用させることが極めて重要であることを示唆しています。
② 術後数ヶ月〜数年(既存の傷跡への治療)
すでに盛り上がってしまった傷(肥厚性瘢痕)に対しても、ボトックスは有効な選択肢の一つです。
ステロイド注射(ケナコルト)が著効しない場合や、ステロイドの副作用(皮膚の委縮や毛細血管拡張)を避けたい場合に、ボトックス単独、あるいはステロイドとの併用療法が行われます。
動物実験レベルではありますが、ステロイドとボトックスを併用することで、それぞれの単独治療よりも効果的に瘢痕のボリュームを減少させたというデータもあります(4)。
しかし・・・すべての傷に効くわけではない
「ボトックスを打てば、どんなキズも消える」というのは間違いです。医学的に誠実な立場で、その限界についてもお伝えします。
効果が期待できるケース
- 表情筋の動きが強い場所の傷(額、眉間、口周りなど)
- 赤みや盛り上がりがあり、現在進行形で活動している傷(肥厚性瘢痕)
- 痒みや痛みを伴う傷(ボトックスには鎮痛・鎮痒作用も報告されています)
効果が限定的・適応外のケース
- 成熟瘢痕(せいじゅくはんこん):何年も経過し、白く平らになった傷跡。これはすでに組織が安定しているため、ボトックスを打っても変化は期待できません。
- 広範囲の熱傷後瘢痕など:ボトックスの投与量には安全域の上限があるため、広範囲の治療には向きません。
- 陥没した傷(クレーター):盛り上がっているわけではないため、ボトックスの適応ではありません(ヒアルロン酸注入やレーザー治療等が検討されます)。
リスクと副作用について
治療介入には必ずリスクが伴います。
- 周囲の筋肉への拡散: 顔などの細かい筋肉が集まる場所では、狙った傷以外の筋肉にも作用し、一時的に「表情が作りにくい」「眉が下がる」といった症状が出ることがあります(数ヶ月で元に戻ります)。
- 痛み: 硬い傷跡への注射は、通常のボトックス注射よりも痛みを伴うことがあります。
- コスト: 傷跡に対するボトックス治療は、日本では基本的に自費診療となります。
よくある質問(FAQ)
Q1. 傷跡のボトックスは痛いですか?
瘢痕組織は硬いため、通常の美肌ボトックスより圧力がかかり痛みを感じやすいです。当院では冷却や麻酔クリーム、極細の針を使用し、痛みを最小限に抑える工夫を行っています。
Q2. 1回で治りますか?
予防投与(術直後)の場合は1回で済むことが多いですが、既に盛り上がっている傷(肥厚性瘢痕)の治療では、1ヶ月おきに数回の継続が必要となる場合があります。
Q3. ステロイド注射(ケナコルト)との違いは何ですか?
ステロイドは強力に炎症を抑え組織を萎縮させますが、「皮膚が薄くなる」「赤みが残る」等の副作用が出ることがあります。ボトックスは作用機序が異なり、ステロイドの副作用を避けたい場合や、併用して相乗効果を狙う場合に用いられます。
Q4. 帝王切開の傷にも効きますか?
理論上は有効と考えられますが、使用量が多くなる点や、授乳中の方への安全性(薬剤の移行など)が確立されていないため、推奨されないケースが多いです。必ず主治医と相談してください。
Q5. 傷ができてから時間が経っていますが、間に合いますか?
傷がまだ赤く、硬さや痒みがある場合は効果が期待できます。しかし、完全に白く柔らかくなっている(成熟している)場合は、ボトックスではなく、外科的な「傷跡修正手術(切り直し)」の適応となることが多いです。
まとめ
ボトックスはシワ予防だけでなく、「傷跡の予防・治療」においても、信頼できる論文レベルでのエビデンスが増えてきています。 特に、以下のポイントが重要です。
- 傷にかかる「緊張」をとり、細胞の「過剰な暴走」を抑える。
- 手術直後や怪我の早期に打つことで、きれいな治癒を助ける(予防)。
- 盛り上がった傷の赤みや痒みの改善にも役立つ(治療)。
ただし、傷の状態によっては別の治療法(レーザー、手術、内服など)が適している場合もあります。ご自身の傷跡にボトックスが適応かどうか、まずは形成外科専門医にご相談ください。
参考文献
1. Gassner HG, Sherris DA, Otley CC. Botulinum toxin to improve facial wound healing: a prospective, blinded, placebo-controlled study. Mayo Clinic Proceedings. 2006;81(8):1023-1028. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/16901024/
2. Jeong HS, Lee BH, Sung SY, et al. Effect of Botulinum Toxin Type A on Differentiation of Fibroblasts Derived from Scar Tissue. Plastic and Reconstructive Surgery.2015;136(2):171e-178e. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/26218391/
3.An MK, Cho EB, Park EJ, et al. Appropriate Timing of Early Postoperative Botulinum Toxin Type A Injection for Thyroidectomy Scar Management: A Split-Scar Study. Plastic and Reconstructive Surgery. 2019;144(4):659e-668e. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/31568312/
4.Chen HC, Boriani F, Lo SJ, et al. Comparison of Steroid and Botulinum Toxin Type A Monotherapy with Combination Therapy for Treating Human Hypertrophic Scars in an Animal Model. Plastic and Reconstructive Surgery. 2017;140(1):43e-49e. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/28654594/
5.Bi M, Sun P, Li D, et al. Intralesional Injection of Botulinum Toxin Type A Compared with Intralesional Injection of Corticosteroid for the Treatment of Hypertrophic Scar and Keloid: A Systematic Review and Meta-Analysis. Medical Science Monitor. 2019;25:2950-2958. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/31006769/
※本記事における薬剤・治療名の表記について
本記事では、読者の皆様への分かりやすさを優先し、一般的な呼称として以下の表記を使用する場合があります。
1. ボトックス(BOTOX®)について 「ボトックス」は、アラガン社(Allergan, Inc. / AbbVie)の登録商標です。医学的な正式名称は「A型ボツリヌストキシン製剤」ですが、本記事では便宜上、同成分の製剤を総称して「ボトックス」と表記しています。
2. ケナコルトについて 「ケナコルト」は、トリアムシノロンアセトニド(ステロイド)水性懸濁注射液の先発医薬品名(登録商標)です。本記事では、傷跡治療に用いられるステロイド局所注射療法全般を指して「ケナコルト注射」と表現する場合があります。
【医薬品医療機器等法上の承認に関する表示】 傷跡(肥厚性瘢痕・ケロイド)に対するボツリヌストキシン治療は、日本国内においては医薬品医療機器等法上の「適応外使用」となる可能性があります(※製剤により承認適応が異なります)。当院では、医学的根拠に基づき医師の判断のもと、自由診療として実施しています。
- 国内の承認医薬品等の有無:国内においては、「ボトックスビスタ」が眉間や目尻の皺などに対して承認されていますが、傷跡治療に対する適応は承認されておりません。
- 諸外国における安全性等:米国FDAをはじめ、世界各国で美容・医療目的で承認されており、重篤な副作用の報告は稀ですが、必ずリスクをご理解いただいた上で施術を行います。

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